正月はクソ

私は正月が大嫌いである。

特に我が家は昔から正月は盛大に祝うので、年末年始はその準備で人々がバタバタと忙しくしている。年末は実家でゆっくりと……などとは程遠く、皆ピリピリしているような気がして、私のような繊細な人間には非常にストレスが溜まる。

正月はクソだと思う。私は静かに過ごしたい。

ねんがじょーをかくんだあ。

わたし、その、ことしけっこーいそがしくて、その、ねんがじょーってゆーがいねんを、かんぜんにぼーきゃくしてたんだあ。まーね、だからね、いまからかくんだけどね、ことしはね、いんすぴれーしょんがままあ゛ぁっ!だからね、うーん、まーね、なにかこーかまよってるんだあ。

めんどくちゃいけどね、これもまたじんせーなんだっておもうきょーこのごろなんだあ。

0という選択

私は、3次元といわれる類のアイドルや声優の追っかけはしていない。これは事実である。このような言説に意味があるかはさておき。

アイドルや昨今の声優はある種の夢を売っている。数十万分の一の確率のワンチャンを。で、オタクはとりあえず貢ぎ、崇拝対象に恋愛が発覚すると喚き、その夢の破れたるに心を痛める。夢を追いかける姿は美しいが、いずれ終わりは来る。私には怖くてそのようなことは到底できない。彼らは尊敬に値する。

私はというと、常に心の平安を求めている。雪歩やまどかは私にとって崇拝対象に近いが、恐れることは何もない。彼女たちは年を取らない。誰のものにもならない。私のものにもならない。つまりは不変の存在である。中の人などどうでもいい。心の栄養にワンチャン思考など雑念に過ぎないのだ。雪歩を見ると、私が初めて彼女を知った瞬間を思い出す。目が希望に満ちていた頃。懐かしい。その気持ちを忘れないためには、むしろ0が良い。忍び寄る誰かの足音も、彼女の日常も、変わりゆく姿も、何も気にする必要のない世界。私も0、皆人も0の平等で平和な世界。

ただ、そうはいっても私にもいずれは争いに身を投じざるを得ない日は来る。生物としての使命である。でも、その日が訪れるまで、私に闘う覚悟が生まれるその日までは雪歩やまどかとともに己の道を歩んで行きたいと思う。

もやもや

研究をほとんど進められていない。

というか、ミーティングと雑用が多い。

週に4回研究ミーティングがあって(どれも2~3時間)、週に一回なぜか押しつけられたTAがある。(3~4時間)。それに加えて別のTAで週に4時間くらいは取られていて、授業も週に数コマあるから、研究が進まない。

ハードウェアを扱っているから実験の前段階の研究に使う道具の開発に時間が取られるのに、研究室自体はソフトウェアのロジックで全部進むから、何も進まない。パラメータをいじってサーバにジョブを投げて寝ている人間とは根本的に違うのに。

研究室の人間はハードウェアをやれやれと叫ぶが、結局ソフトウェアの机上の空論で終わる人間がほとんど。しかもなぜかハードウェア寄りの人間に集中的に雑用が回ってくる。めんどくさい。先生もめちゃくちゃ忙しそうだし、なんか研究現場は構造的に終わっている気がする。

大学院まで来て何やってるんだか。あほくさ。

ただ

本当はただ好きなものを作っていたいだけなのに。研究なんて全く興味もないし働きたくもない。東大卒という言葉が自分に似合う気もしないし、それで何かを期待されるのは苦しい。

心が何かを作れと常に叫んでいる。この数年間ずっと。

電子工作は手段であって目的ではない。進んでやりたくもない。得意だけどだるい。食いつなぐことはできなくもないか。

芸術をしたい。

いつも周囲を期待させようと見栄を張って結局自分が苦しんでいる気がする。二十年ほど生きてきて、賢くあらねば、何かをなさねばという強迫観念に疲れてしまった。研究も進捗を偽装することに心を擦り減らしている気がする。悲しい。

幼稚園に入った頃には東大か京大に入る未来はおおよそ定まっていたし、それが自分の中でも当然のことだと考えていた。家族も親族も期待してくれた。でも私は研究をすべき人間ではなかった。大学に入る能力とそこでうまくやっていく能力は別物なのだと痛感する。はぁ。芸大とか専門学校とか楽しそうだなって思ったり。今さら入ろうとも思わないけど。前は高専に憧れていたけど、それは違うと思った。まあ。

いつまで経っても社会に馴染めない。

頭がごちゃごちゃしているけど一応これが今の記録。