新しい街で

引っ越した。場所は悪くない。動物園も歩いて行けるし。驚くほどのマンション密集地。まあ、ここに住むのも長くて5年くらいだけど。

東京に飽きてしまっていた部分があったので、ちょっと離れたオフィスになったのは良かったと思う。これからいろいろと探検したいなと。

 

引越しの時には母親に手伝ってもらったが、何かと話す機会が多かったので、この数年ずっと気になっていたことを訊いた。自分はいつから勉強をする道、もっと言えば東大を目指す道を進むことになったのか、と。答えはシンプルに「生まれた時から」だった。まあそんなものだろうとは思っていたけれど。別に名家でも何でもないけど、この家に男として生まれた必然と、小さい時からそこそこ勉強への適性があった偶然……どちらかというとそうなるように育てられた必然な気もするけれど。

でももう一つ、結婚して諸々の事情で研究者の道を諦めざるを得なくなった母親の自己実現というのもあったみたい。頑張って研究してきたけれど子どもを育てることに専念するほかなくなって、自分が捨てた未来に意義を見いだすには子どもに夢を託すしかなかったのかな、なんて。子育てを始めたら他のことなんてどうでもよく感じたとも以前言っていた気がするけれど。

この6年間を振り返ると、やはり私に大学―特に東大適性はなかった。気質としては本来何かしらの勉強をして職人の工房や美術大学なんかにいるべき人間だったのだと思う。でもそうはならなかったわけで。大した技術も知識もつかなかったけれど、自分を嫌というほど見つめ直して、自身の価値観がかなり収束してきた期間だったと思う。まあ、一言で言えば挫折なのかな。逆にそれまでが順調すぎたのだろうけど。まだまだ心は子どものままだけれど、それでも少しは成長したのではないかと思う。

 

仕事は最初は入社イベントやグループワークなど。まだ最初のうちは研修ばかりだと思う。お友達を少しでも増やせたらな、なんて思ったり。しばらくの目標は……会社を自分にとって居心地のいい環境にすること。でもそれよりもまずは早起き。今週は毎朝7時くらいに起きたけど、結構きつかった。起こしてくれる人が欲しいもの。

飼い主

私が日常生活すら健全には送れていない理由を考えた時、自分はおそらくタスクや集中力の管理が絶望的に下手なのだろうという結論に達した。

世の中にはADHDASDというのがあるらしく、それらを疑った時期もあるものの、どちらもピッタリとは当てはまらない。

ADHDについては、不注意型と多動・衝動型があるらしいが、私に後者の気配はほぼない。思いつきで行動しがちだけど、社会生活で困ったことはない。前者はやや当てはまる。特に過集中は私の大きな課題の一つである。何かしらの条件が噛み合って没頭し始めると寝食忘れて続けてしまうのに、その後は必ず寝込んで1週間くらいは無気力になる。それとタスクの順序立てなども苦手である。ただ、物をなくしたりミスを多発したりすることはそんなにない。まあ、我が人生がミスの塊といえば、ままっ!になるが。

ASDについては、ちょっと違うと思う。マシンガントークイカ東はこれに近いんだろうけど、自分はむしろ他の人が何を考えているかを考え続けてだんまりという感じだし。

この性格は昔からそんなに変わっていないんだろうけど、一人暮らしを始めてだんだん危うさが見えてきた。たぶん規則正しい生活を促してくれる環境が必要なのだろうなと思う。朝起こしてくれる人、仕事場で仕事しろと言ってくれる人、今日はこれでおしまいと言ってくれる人、夜になったら寝ろと言ってくれる人。タイマーで管理というのがどうもできないから、そこに人の声があるといいなと。過集中とうまく向き合えればもっと楽に生きられると思うから。まあ、良くも悪くも今までの人生はこれで乗り切れてしまっていたのだけれど、だんだん限界が見え始めている。

自分は鎖で繋がれるのを徹底的に嫌う一方で、結局のところ自分一人では自身をうまく制御できないんだなと痛感する今日この頃。早く優しい飼い主に巡り会いたい。

居場所

この世界はあまりにも息苦しい。

大学生になって、ようやく自分はちょっと変わっているのだと感じた。高校の頃は学風もあってか個性こそ人がその人たる所以、とても大事なものという雰囲気があったから、特に何も気にしていなかった。でも、上京してから、意外とテンプレ的な人が多いんだなと思ったり。そして、普通な人同士のコミュニティは強固に存在するのだとも。

別に私は彼らを軽蔑はしない。社会とは無数の歯車が集まって回っているものだから。でも、自分がそのどことも噛み合わないのだと気づいた時、やはり寂しくなる。いろいろ試してきたけれど、私の居場所というのは自分の部屋か実家か一人で過ごしている空間か、それくらいしかない。動物園も絶対一人で観に行きたい。他の人と関わると酷く疲れるし、それはいくら親しい友達でも同じ。ただ家族だけは話しても疲れないから、心を許せる存在、それが家族なのかな、とも。でもいつまでも甘えるわけにはいかないから、第二の母や姉として妻が必要なのかな、と。なんかその発想も甘えすぎな気もするけど。

いつか起業したいな、なんて思っていたりもちょっとはするけど、最初から稼ぎたいとか社会を良くしたいとかそういう野心的な思いからではない。ただ、自分の居場所を作れるなら起業してみたいな、というのが本当のところ。素直に生きられないというのは、苦しいものだから。ちなみに、年々金への執着も失せてしまっている。たぶん、お金だけでは自分は幸せにはなれないというのを本能的に知っているんだと思う。でも世の中の多くの人はお金が好きだから、やはり話というか価値観が噛み合わない。それでまた、寂しくなる。

会社に入って、もしそこの居心地が良ければずっといると思うし、厳しければ転職を繰り返している気もする。どうしたものかな、と。普通は何かを犠牲に何かを得る、そういう思考ができるんだろうけれど。なかなか大人にはなれない。

対話

寂しい。寂しくて寂しくて仕方がない。ただ誰かと話す気にもならない。

高校の頃は何だかんだで嫌でも人と毎日会って、気分のなる時は親しい人と話す、そんな感じだった。もともとそんなに群れる方でもない。

大学に入って親元を離れ、毎日話す人というのはなくなった。それでも1年の頃は露領で時々だべったり、新しい街を散策したりと、そんなに寂しさも感じなかった。

でも、2年の春頃から明らかにあらゆることが空回りし始めている。一つは成績勝負が一段落して、燃え尽きたこと。小学生の頃から受験やら何やらで何かと勉強で競う人生だった。それが大学1年の冬で一段落して、緊張の糸がプツンと切れてしまった。もう一つは、自分自身が何がしたいのかよくわからなくなってきたこと。高校の頃は大学に進学すれば何かが変わる、1年の頃もその気持ちでいたのに、いざ選択権が与えられた時、自分は何がしたいのか分からなかった。どれも興味はあるけれど人生を賭ける意味を感じない、おそらくそんなところ。2年の春は無気力で暇だったので、授業はどんどん切って、バイトや教習所、見本市潜入など、いろいろ試してみた。でもわかったのは、何かが違うという感覚だけ。たぶんその頃から、自分は芸術寄りの人間なんだろうなぁというのを薄々感じ始めていた。アニメを見たり音楽を聴いたり。高校生の頃までほとんどしていなかったからか、それらがとてつもなく新鮮で心が揺さぶられた。でも、自分に芸術の素養があるわけでもなく、今更転向するような年齢、立場でもない。大学にいることが自分に嘘をついているような苦しさがあって、今でもそれは変わらない。

結局、悩みに悩んで幼稚園の頃に憧れていた航空宇宙の道を選んだ。でも、私は無気力なままだった。何かが違う、ずっとそんな気分で堕落し、いろんな人に迷惑をかけながら何とか卒業した。というか脱出した。3年の頃は学部卒での就職も考えていたけど、理系として働くには修士を出ておけと親に助言されたので、進学することにした。研究室の先生は紳士的な人で話も面白く非常に好きだったものの、分野がちょっと合わないと思った(たぶん、その時も芸術的な何かを求めていた)ので、航空を抜け出すということだけを考えて、ロボット方面の研究室に移った。

研究室を変えて大学院に進学したものの、分かり合える人はそんなにいなかった。みんなの話していることに興味が湧かないし、分かりたいとも思えなかった。研究に関係ない話でも、驚くほど話が合わなかったというか、そもそも価値観が違っていた。価値観が違うのは当たり前、それはわかっているが、私は心の底から分かり合える、分かり合いたいと思える人が欲しい。いろいろ環境を変えては人と話して、その度に挫折して、心が擦り切れてしまった。研究室に行っても中身のない(研究的意義とかそういうのではない)、心が擦り減る会話しかする余地がないと思うと途端に憂鬱になって、引きこもりがちになってしまった。まあ引きこもるのは得意な方だが、ちょっと病的になりつつあるとは感じている。最近は人と話している時間より動物園の動物を眺めている時間の方が長い。

院進直後は博士なんかも若干考えていたが、もうダメだと思ったので逃げるようにして就活を始め、一応大手の内定はもらった。ただ何か積極的な理由があったわけではなく、現状を少しでも変えたいという一心でサイコロを振り直した感じ。消去法で、エンタメと接点のありそうな開発職を選んだ。ただ、不幸中の幸いというべきか、冬インターンからの流れで就活があっさり終わったのは良かったと思う。

今も何かとサイコロを振ってはたまに当たり機会を得るということはあるが、どれも自分でその好機を潰してしまっているところは否めない。そもそもスタミナが圧倒的に足りていない。一つタスクをこなすと1週間寝込んだり、そんな暮らし。まぁどうすれば治るのかとかは全部わかっているけれど。

答えというか、何というか、やはり私は一人では生きていけない。妻が必要。毎日嫌でも話して、心のつながりを感じられる人。夜に寝かしつけて、朝起こしてくれる人。でもそのためにはもっと誇れる自分でありたいし、未来への道筋をある程度示しておくことがせめてもの礼儀だとは思うので、今の状態で婚活がどうのというのはちょっと考えられない。出会っても砕け散るだけだと思う。まぁ、一度社会に出てまともな人間になれたらなぁと願うばかり。

ずっと対話できる相手を探している。でもたぶんそういうのって長い時間一緒に過ごした人だからこそなりうるものであって、私に残された学生時代はもうそんなに長くない。だからそんなに増えるものではないと思うし、望むのも変な話だとは分かっている。まあ、人生は難しい。勉強なんかよりもよほど。

ひたすら書き殴って酷い文章になったが、数年後読み返すために一応の記録ということで。

賢くてきれいで優しいお姉さん

私のストライクゾーンの象徴として、「賢くてきれいで優しいお姉さん」という標語がある。それについて一応つらつらと。

「賢くて」知性に溢れた人は素敵である。勉強ができるというよりは、人としての賢さを身につけた人、上品な人、人間的な魅力がある人、その辺。地頭の良さというか。私よりその辺がなっている人がいい。私自身がままあ゛ぁっな人なので、そんなに厳しい条件ではない。

「きれいで」私は悲しいかな美人に弱い。めちゃくちゃ弱い。世間で人気のある女優がどうのこうのというよりは、おそらく私に刷り込まれた本能的に好きな顔の条件が何かしらあって、それを満たす人にはほぼ無条件で逆らえなくなる。そういう人が善良な市民であることを祈るばかり。

「優しい」優しさは大切である。心の豊かさというか、賢さにも通じるが、優しさや思いやりというのは私が最も欲しているものである。

「お姉さん」これは、まずは雌であることを指す。たとえ女の心でも、雄は受け入れられない。雌かつ男というのはよかわからないが、まあ。その上でだが、これは必ずしも私より実年齢が上であることを要求するものではない。要は、私に対して妹より姉的立場で振る舞える人のことを指す。私は、自身が誰かをグイグイ引っ張っていける人種でないことを理解している。ある程度引っ張ってもらいたいし、よしよししてもらいたい。それが、私の思い描く「お姉さん」である。おそらくこれは幼少期から私が男は女には逆らえないという英才教育を受けてきたからであって、おねシ∃タ的エリートが無事社会に放たれたことを意味する。

ざっくりとはこんな感じ。これらは私が絶対に譲れない価値観であって、これらを満たす人と出会わなければ私は一生独身だと思う。嫌だけど。早く良い縁に恵まれることを祈る今日この頃。

X

実は大学4年生の終わりにTwitter、今のXを辞めて以来、知り合いとのSNSはほぼ完全に辞めてしまった。投稿することもない。今はというと、フォロワーもいない鍵垢でプラモデルやゲームなんかの情報収集をするくらい。なんというか、これくらいが私の身の丈にあったSNS生活なのかなと思う。普段は何も書かず、たまーにここに書いて、次書くときに軽く見返すくらい。

この一年ほどで、良くも悪くも人間関係が疎になった。研究室の人とはもう一生分話した(※当社比)気がしてあまり話していないし、あれ関連で新たなコミュニティには加わったけど普段は会うこともないし。中学からの親友もこの夏に無事東大を卒業して地元に帰ってしまった。ときどき一緒にお出かけしていたから、仕方ないけどちょっと寂しい。彼女も妻もなく、東京では一人でいることが多い。実家にいると甥の世話を頼まれたりして何かと気が紛れるのだけど。

やはり、私には妻が必要だと痛感する。友達でも親友でも彼女でもない、大切な人。朝は起こしてほしいし、夜は寝かしつけてほしいし……というとクズになりそうだけど、私を理解しようと努めてくれる、女の人。いくら親しくても男とべちゃべちゃするのは抵抗があるので。何というか、前からそうだけど、恋愛ゲームをする気はない。面倒くさい。彼女とデートしたいとかはなくて、ただ側にいてほしいというだけ。男がずっと側にいると暑苦しいので、女がいい。そして、切る切られるではなくて一緒に困難を乗り越えたいので、妻がいい。賢くてきれいで優しいお姉さん……うまく探せるといいのだけど。

自分に合った人付き合いはなかなか難しい。いろいろ試して失敗して、の繰り返し。2〜3年後くらいには安定してくると安心かな、と。

飲み会

飲み会は嫌い。自分がお酒に強くないというのもあるけど。

まず、会話のレベルが低い。特に大学生の飲み会の会話レベルは失望に値する。元彼がどうのこうの、吐きそうだの、、、アホかと。お前、その会話を5年後できるのかと。常識的に考えて、恥ずかしくてできないと思う。大学生だから許されるという考え方もあるけど、人としての評価はすでに始まっているわけで、大丈夫かなと心配になる。

ところで、なぜか上京してから特に学生の会話レベル低いような……低いと言うと怒られそうというか語弊がありそうだけど、話が純粋に面白くない。オチを作る努力もなく、自分をネタにする覚悟もなく、知識も浅はかで、その上これといった趣味、、、趣味を持てとは言わないけれど、その人がその人である理由、要は特徴もない。これは実に悲しいことで、話していても何も得るものがないし、正直なところモブキャラにしか見えない。飲み会ではただでさえこのベースの人間の話が酒によって数段階劣化してくるわけだから、悲惨そのものである。

次に、うるさい。飲み屋は人で溢れているから、当然うるさい。ベラベラと大声で中身のないことを話して、面白くもないことでガハガハ笑う。……わからない。ゆったりと静かに酒の味の感想を語り合うとか、酒飲みなら酒飲みらしく酒に敬意を払うような、そういう何かができないのか。私も酒を飲んで知能を落とせば理解できるのかもしれないが、普通に考えて滑稽であるし、猿にしか見えない。まあ、あの猿たちは酒をアルコールとしか見ていない。酒が好きなように見えて、本当は酔えれば香り付きのメタノールでもいいのだ。

最後に、公平でない。酒席では、当然飲むことを前提としたシステムになる。飲まない下戸も均等に割り勘である。それはいい。ただ、クソなのが、酔い潰れたゴミ(=猿)の処理が飲んでいない人間に回される点である。お前ら飲んでないから頭働くやろ、世話してやってくれ……まとめて電車のホームから突き落としたろかと思う。第一、飲み会で潰れるというのはアホである。これは断言する。自分の限界も知らずに酒に飲まれるアホ。これは恥ずべき醜態そのものであって、許容されるものではないのだ。でも厄介なことに、このゴミは意識が飛んでいるため、学習しない。誰かの優しさによって自分が家に帰れたこと、ホームから落ちなかった、いや落とされずに済んだこと、それらを覚えていない。だから同じ過ちを繰り返してしまう。救いようがない。

私は、普段は飲み会に参加しない。これからも酒を強いられない世界で生きようと決めている。飲み会は処世術として必要な時もあるのだろうが、私は自分の信じる正義のために、気の乗らないときはきちんと断る、あるいは逃げることにしている。

声の大きい人ではなくて、思いやりのある人が幸せになれる世界。これは私が人生を賭けてでも叶えたい理想である。